2025年3月学位記伝達式
法学研究科法務専攻、法学・政治学専攻の学位記伝達式を行いました。
法学研究科法務専攻の修了生は11名、法学・政治学専攻の修了生は3名、そして人間社会環境研究科人間社会環境学専攻法学・政治学コース(博士後期)の修了生は2名でした。さらに、法学・政治学専攻の修了生のうち、長山昂平さんには優秀論文「秀」の認定証を授与しました。修了生の皆様の今後のご活躍を祈念します。
(法学・政治学専攻学位記伝達式)
法学・政治学専攻での研究科長祝辞
「修了生の皆様、本日は誠におめでとうございます。厳しい過程を乗り越え、修士論文を完成させ、この日を迎えられたことは、皆さんの努力の証です。また、これまで支えてこられたご家族や関係者の方々にも、心より敬意を表します。
法を学ぶことは、単なる知識の習得ではなく、公正と正義を追求し、社会に貢献する使命を担うことを意味します。これから社会で、または博士後期課程へと進まれる皆さんにとって、試練もあるかと思いますが、誠実さと努力を忘れずに歩んでいってください。
さて、せっかくの機会ですので、私の専門である法理学の視点から、一つ皆さんにお伝えしたいことがあります。それは、「思い込みは危険である」ということです。 私は、ドイツの法哲学者ラートブルフの法概念に関心を持ち、法理学の世界に足を踏み入れました。彼は、法とは「正義に奉仕するという意義を持つ現実である」と考えました。ここで「現実」とは、法には、それに自発的に従わない人に対しても服従を強制する力が伴っていなければならないという意味ですが、この点はさておき、「法は正義に奉仕する」という部分に注目したいと思います。
私は長らく、「法」とは法令を指すものと考え、それが正義に奉仕するとはどういうことなのかを探求してきました。ところが、個々の具体的な法的紛争に目を向けると、法令に従った判断が、どうしても正義に反すると感じられる場合に直面することがあります。そう考えますと、一般的な法令そのものに「正しい」「正義にかなっている」と評価することは本質的に不可能であり、正義とはむしろ、個々の具体的な事例において判断されるべきものではないか、と思うようになりました。 誤解を恐れず比喩を使えば、「おいしい」という言葉は料理には適切ですが、その料理を作るための調理器具に「おいしい」というのは不自然です。同じように、法令は正義を実現するための道具ではあっても、それ自体に「正義」という評価を与えることはできないのではないか、言い換えれば、法令に従っている判断が、従っているがゆえに自動的に正しいとは限らず、個々の事例に応じた判断が必要なのではないか、ということです。
以上のことから言える教訓は、「法」のように私たちにとって当然と思われる概念でも、多様な解釈が可能であり、思い込みによって一つの解釈に固執すべきではないということです。私はそれに無意識のうちに固執していた結果、研究の「問」の設定が不適切で、そのためにかける必要のない時間をかけてしまっていたのかもしれません。当たり前のことかもしれませんが、これから皆さんが問題に直面したとき、「問」を問い返すことを、ぜひ念頭に置いていただければと思います。問を疑うことで、新たに見えてくるものがあるはずです。
それでは、皆さんの今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。改めて、修了おめでとうございます。」(2025年3月21日 足立英彦(研究科長))