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米田 雅宏(行政法)

米田 雅宏(行政法)

米田教員講義風景 言葉に敏感になるということ 先日、山中町の温泉街を散策していた時、ふと、ある先生と交わした次のような会話を思い出しました。 「芭蕉が山中温泉で詠んだ有名な句の最後、『湯の香り』『湯の匂い』どっちでしたでしょう?」 「さて、どうだったでしょう。でも『湯の匂い』の方がピッタリな感じがしますよね。硫黄臭を想像させる温泉にはやはり『匂い』でしょう。『香り』だとなんだか少し上品なような気もしますし・・」 そこで、近くにあった「芭蕉の館」に寄って確かめてみることにしました。明治中期の宿屋を改築したというこの建物には、芭蕉に関する資料や山中漆器が数多く展示されていましたが、その中に問題の句も見つけることができました。 山中や 菊は手折らじ 湯の匂い ※ うーん、やっぱり「湯の匂い」だ。後日、家に帰って辞書を引いてみると、「匂い」は「(そのものから漂ってきて)鼻で感じられる(よい)刺激」、「香り(薫り)」は「いつも身辺に漂わせておきたいような、いい、におい」を意味するとありました(『新明解国語辞典(第六版)』(三省堂))。いい匂いだけに使う「香り(薫り)」とは違い、「匂い」は、鼻で感じるものすべてについて言うようですね。「単語には一つ一つ物をとらえる角度がある」(大野晋『日本語練習帳』(岩波新書・1999)14頁)とは、実にうまい表現ですが、「匂い」と「香り」にもそれぞれ、物をとらえる角度があることは確かなようです。 ・・・・・・・・・・・・・ 日本人は、短歌・俳句というすばらしい芸術を生み出し、古来より、《言葉に対する鋭敏な感覚》を育ててきました。一瞬の情景を数少ない言葉で表現するためには、人間の五感すべてを使って自然(事実)を徹底的に観察し、その情景を表すために最も相応しい言葉を厳選しなければなりません。 このような《言葉に対する鋭敏な感覚》は、芸術の世界だけではなく、法律の世界にも必要だと言えます。法律の言葉が紛争の実態を表す一要素であり、また、法律の解釈が言葉によって展開される論理である以上、個々の言葉が持つ微妙な違いをとらえる感覚がなければ、紛争の本質をとらえ、これを処理することはできません(法学部生は、まさにこのような感覚を養う訓練を-無意識的にであれ-日々行っている筈です)。 しかし、テレビや新聞など巷で使われている言葉については、どうでしょうか。同じように鋭敏な感覚は維持されているでしょうか?「自由」「説明責任」「公約」「いじめ」「科学的」「国際貢献」・・・・・最も敏感になるべきはずの言葉が、社会の実態から離れた、空虚な言葉のように聞こえてはいないでしょうか。意図的に事実を歪曲してこれらの言葉が使用されていることはないでしょうか。 言葉をどう使うかは、その人の事実に対するものの見方と密接に関係します。実態から離れた言葉は、単なる記号であり、決して私達の心をとらえることはありません。いや、それどころか、虚像を表す言葉として、私達の考えを誤った方向に導いてしまう危険すらあります。事実の洞察に裏付けられた《言葉に対する鋭敏な感覚》を、私達は常日頃から磨いておかなければなりません。 1300年の歴史を持つ山中温泉「菊の湯」に浴しながら、そんなことを考えた一日でした。 ※ 山中温泉に浴すると、菊の花から作る不老長寿の中国の薬を飲むまでもなく、長生きする心地がする、と言う意味。 2007年11月20日掲載